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なぜ、「超反日」から「超親日」へ?【1】―フィリピン、戦後70年の歩み

フィリピンに侵攻した日本軍
フィリピンに侵攻した日本軍

◆”超反日”から”超親日”へ

フィリピンに、こんな笑い話があります。

 

戦後すぐは、「日本人が来た~」と誰かが叫ぶと、みんな蜘蛛の子を散らすように家に逃げ帰った。ところが今は、「日本人が来た~」と誰かが叫ぶと、みんなあわてて家から出てくる(笑)。

 

“超反日”から“超親日”へ。フィリピンの日本人に対する国民感情がかくも大きく、というか真逆なものへと変化していったかをユーモラスに表しています。

 

この記事では、どのような経緯でそうなったのかについてみてみたいと思います。 

◆日本によるフィリピン占領支配

1945年、日本の敗戦をもって終結したアジア太平洋戦争(第二次世界大戦)ですが、フィリピンでは、戦後、30年間ほどは、日本人と分かると、「人殺し!」と罵られ投石される状況が続きました。それほど日本人は憎まれ嫌われていました。

 

その背景には、日本によるフィリピン侵攻の歴史があります。1942年、日本は当時アメリカの植民地であったフィリピンに侵攻。約3年半の間、占領支配しました。日本軍はフィリピンだけでなく東南アジアのほぼ全域を占領。侵攻の目的は南方資源の確保(主に石油)でしたが、“大義名分”は欧米諸国による植民地支配からの「東南アジア解放」でした。

 

この大義名分は、インドネシアやマレーシアではある程度受け入れられました。しかし、フィリピンではあまり歓迎されませんでした。なぜなら、アメリカはフィリピンに対して1947年に独立させる約束をしていたからです。日本軍の大義名分、「アジアの解放」というスローガンはフィリピン人にはありがたみの薄いものだったのです。

 

フィリピンにおける日本軍と米軍の戦いは熾烈を極め、約50万人の日本軍兵士が命を落としました。外地(日本が侵攻したアジア諸国)における日本軍戦死者のうち、フィリピンで最期を遂げた兵士の数は最大! 文字通りのアジア最大の激戦地でした。対するアメリカ兵の死者は約1万5千人でした。

インドネシア・マレーシアの石油資源確保のためフィリピンを確保したい日本軍でした
インドネシア・マレーシアの石油資源確保のためフィリピンを確保したい日本軍でした

◆空前絶後のフィリピン人犠牲者

では戦争当事者でないフィリピン人はどのくらい亡くなったのでしょうか。これがなんと110万人という驚くべき数です! 前述のとおりフィリピンで最期を遂げた日本軍兵士数50万人と最大規模でしたが、その倍以上のフィリピン人が犠牲になったのでした。

 

フィリピンの被害がいかに大きかったか、いかに多くの人を犠牲にしてしまったかは、下記の日比比較をみればさらに実感していただけるのではないでしょうか。

 

日中戦争から太平洋戦争までのトータル15年間の戦争でなくなった日本人(民間人も含む)戦死者の数は約310万人でした。当時の日本の人口は約7,200万人でしたから、日本人の約4%が犠牲になったことになります。

 

一方、フィリピンの当時の人口は約1,600万人。そのうち110万人が命を落としたということは犠牲者比率7%。実に、人口比では日本の2倍近いのです。

戦闘で亡くなる人よりこうして飢餓で亡くなる兵士の方が多かったそうです
戦闘で亡くなる人よりこうして飢餓で亡くなる兵士の方が多かったそうです

◆飢餓に苦しむ日本兵がフィリピン人を殺害

では、なぜ、フィリピンは戦争当事国でもないのに、これほどまでの被害に遭わなければならなかったのでしょうか。

 

開戦当初、日本軍は、連戦連勝を続けフィリピンの主要都市を制圧していきました。ところが、1943年以降、守勢に転じ、制空・制海権をアメリカに奪われます。フィリピンに向かう食料・医薬品を積んだ日本の輸送船が、ことごとくアメリカ海軍によって撃沈されてしまいます。

 

食料・医薬品の補給もなされなくなった日本兵は、飢えに苦しみました。フィリピンにおける日本軍戦死者50万人の内、約80%が餓死・病死・自殺と言われています。栄養失調によりいかに無残な死を遂げなければならなかったかは、『日本軍兵士』(吉田裕、中公新書、2017)に詳しいのでご覧いただければと思います(「兵士の目線」重視で書かれた良書として高い評価を受け、2018年に「アジア太平洋賞特別賞」、2019年に「新書大賞」を受賞する話題作となっています)。

 

飢餓状態となった日本兵はどうしたでしょうか。現地フィリピン人からの食糧略奪・強奪に走ります。それに反感を強める反日フィリピン人ゲリラが急増し、日本軍とみると攻撃してくるようになります。それに呼応するように各地で日本兵によるフィリピン人虐殺が起こりました。そのほとんどは反日ゲリラと民間人の見分けがつかない日本兵が、疑心暗鬼・恐怖にかられて民間人を殺戮したためと言われています。

 

こうして、終戦の1年前くらいから、日本軍は、飢餓に端を発して、フィリピン民間人殺戮→フィリピンゲリラの増加→いっそうの殺戮→ゲリラの過激化という負のループに陥り泥沼化していきます。このころには戦線を拡大していたため、フィリピン全土で日本兵が民間人を惨殺する地獄図が現実のもとなってしまいました。

日本人兵士の慰霊碑(ドゥマゲッティ近郊の山)
日本人兵士の慰霊碑(ドゥマゲッティ近郊の山)

◆こんなにものどかなこの村でも・・・

私どもの英語学校のあるドゥマゲティ近郊の山々も例外ではありませんでした。タナリス山にはこの地で命を落とした日本兵のための慰霊碑鳥居が残されています。

 

それから70年経ったいま、その山のふもとの町(バレンシア)に住む私は、毎朝、1時間ほどイヌの散歩で山の中を散策するのを日課としています。緑豊かなのどかな田園風景の中、ゆく道々には15軒ほどの集落が点在しています。

 

道すがら目があうと愛想よく「おはよう!」と声をかけてくれるのがフィリピン人です。「ああ、もしかしたらこの集落で、飢えて骨だけにやせた日本兵が目だけギラギラさせて彼らの集落を襲撃、逃げ惑う村人たちを・・・」そんな光景が頭をよぎり背筋が凍る思いがするときがあります。

 

フィリピン人戦争被害者110万人のうち、日本人によって殺害されたフィリピン人が数十万人にのぼることはほぼ間違いないようです。

こんな美しくのどかな山中にはフィリピン人の集落が点在しています(バレンシア)
こんな美しくのどかな山中にはフィリピン人の集落が点在しています(バレンシア)

◆最大の被害国フィリピンでは戦後激しい反日感情

こうして日本がフィリピンに侵攻したことによって、国民の約7%が死亡。東南アジア唯一の美しいコスモポリタン都市だった首都マニラを初め、主要都市が廃墟と化しました。日本人としては目をそむけたくなる内容ですが、その様子は、永井隆『長崎の鐘』2009に付記されている「マニラの悲劇」をご参照ください。

 

「人的被害、数十万人」。そう一口で言いますが、その一人ひとりは名をもち、家族・友人に囲まれ、道行く隣人と笑顔で挨拶を交わしてきた人間でした。この先、何年、何十年も生きて平穏な人生を全うできたはずの人間だったのです。

 

親、きょうだい、子どもを奪われ、廃墟のなかに取り残されたフィリピン人の怒りの矛先は、当然のことながら日本に向けられます。日本人は、激しい憎悪・反感・嫌悪の対象となります。戦後の「反日感情」は凄まじく、当時フィリピンにいた日系人はその報復を恐れて身分を隠して生きていかざるをえないほどでした。

 

では、このようなフィリピン人の反日感情はいまだに強いのでしょうか? この続きは、「なぜ、超反日から超親日へ?【2】:際立つフィリピン人の寛容さ」をご覧ください。

【参考文献】

吉田裕 日本軍兵士ーアジア・太平洋戦争の現実 2017 中公新書

永井隆 長崎の鐘 付「マニラの悲劇」2009 勉誠出版 

 

【筆者紹介】平山順子  

元名古屋大教育学部准教授(発達心理学Ph.D)

共著書『家族心理学への招待』(ミネルヴァ書房、2019年現在、第2班9刷発行のロングセラー)

現在、フィリピンで英語学校「ウィル・イングリッシュ・アカデミー」を経営。発達心理学の視点から子育てを応援するサイト「ワクワク育児革命~子育て・夫婦関係に悩むママ・パパのために」を運営。

 

【お願い】英語学校ウィルは地元少年サッカーチームSPARTAN FC(貧困家庭の子どもたちが中心)のスポンサーをしています。地元リーグで準優勝を飾る強豪(?!)なのですが、靴はボロボロ、ボールはボコボコが悩み。中古のサッカー用品(靴7~17歳)を寄付してただけませんか? 「お問い合せ」でご連絡下さい。